Essay for Newspaper




生き物の記録

 女性の素潜りによる漁は、世界でも主に韓国の済州島と日本で行われてきた。日本における海女の主たる原郷が、福岡県宗像市の鐘崎であることを知ったのは、つい最近のことである。人間とは、どんな生き物なのだろうか。私は、どんな生き物でいられるだろうか。そんな漠然とした問いが、ここ数年、私の活動を血液のように突き動かして来た。

 いつだったか、荒波立つ海に裸身のまま潜っていく、たくましい女性の写真を見た。それは、押し寄せる力に対抗する頑強さではなく、流れに添っていくような、しなやかな強さだった。そこには、人間が生き物として備えている感性や本能が満ちている気がして、引込まれた。この時触れた世界の断片は、頭の片隅で存在感を放ち続け、私の意識を海女や海人文化に向かわせた。

 鐘崎の海女の先祖にあたる宗像(鐘崎)海人は、日本海沿岸、壱岐対馬、長崎五島、瀬戸内海と広域に出稼ぎし、各地に枝村をつくり定住した。それまで、遠方の海ばかりに目がいっていた私は、海女のルーツが自分のすぐそばにあるという事実に、何か特別な接点を感じた。

 初めて訪れた鐘崎は、魚をくわえた猫が横切ってゆく、のどかな漁村だった。宗像市収蔵の民俗資料に、鐘崎海女の起源の一説として、潜水漁法は韓国・済州島から伝わったという伝承が記されている。かつて玄界灘周縁の生活文化は、潮のまにまに行き交われ、混じり合いながらゆるやかに続いていたのだろう。拳のように突き出た鐘の岬に立ち、海を眺めながら、遠くて近い対岸の島を想った。
     
 鐘崎の海女漁が昔話ではなく、現在もささやかながら確実に営まれていることを知った時、膨大な資料を前にあれこれ考えるのをやめて、とにかく会わなければと思った。生き物同士の出会いは、未知数の可能性を秘めているのだから。

 いくつかの窓口を堂々巡りした後、得体の知れない私を快く自宅に招き入れてくれたのは、鐘崎に残るたった二人の海女のうちの一人、海と太陽の香りがする五十代の女性だった。潜りを教わった母親のこと、最後の現役としての想い、海や仕事の厳しさを話してくれた。

 その後すぐに済州島に向かった。海を渡りながら、国境の越え方を考えた。済州島には現在も、数千人の海女がいる。根拠のない勘を頼りに漁村を巡り、出会いの瞬間をじっと待った。下道里という村で出会ったその人は、78歳で潜りも現役だと日本語で教えてくれた。岩場で貝採りを手伝いながら、お互いのことを少しずつひも解き、距離を縮めていった。

 私はこの二人の女性に、それぞれの浦から海峡を挟むように立ち、対岸に向かって深く一吹き呼吸をしてもらった。そしてその様子をビデオに収め、『潮汐/ムルテ』(済州島漁民の方言で、いい潮時という意)という映像作品を制作した。二人を見つめる私のまなざしが映り込み、まるで三世代の流れが垣間見えてくるようだった。
     
 宇宙が呼吸するように、潮が満ち引く。呼吸によって、生がはじまり、言葉がはじまる。これからの世界において、過酷な自然に生きてきた女性のしなやかな強さやバイタリティを、私はどう受け継いでいけるだろうか。それはどんな生き方なのだろうか。二人の息は、こちらに向かって吹かれている。







2011年11月12日
        西日本新聞朝刊『土曜エッセー』掲載











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